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孤独と痛みの先へ─『ぼっち・ざ・ろっく!』『グミ・チョコレート・パイン』比較感想

 

 

 『グミ・チョコレート・パイン』という小説をご存知だろうか。

大槻ケンヂが書いた青春小説である本作であるが、実は今話題の『ぼっち・ざ・ろっく!」とかなり親和性が高い。どちらも高校生の物語であるし、バンドを組もうとする点でも似ている。実際、私もどこかで「ぼざろ見た人はグミチョコを読んだ方が良い」との話を聞いたので読んだ口である。

 読んでみた率直な感覚としては、「確かに同じテーマを扱っているはずなのに、語り口が対局にある」といったところで非常に興味深く、折角なので考えたことをブログにまとめたいと思った。

 

 という訳で本記事では『グミ・チョコレート・パイン』の感想をぼざろと比較しつつ話していく。

 

(雑語りと言われるのも癪なので、一応ぼざろは原作最新話まで読んでいる、という旨をアピールさせていただく)

 

・後藤ひとりと大橋賢三

 

 まずは本作のスタート地点、主人公について見ていこうと思う。

 

 グミチョコの主人公・大橋賢三は、いつもクラスの隅で誰とも喋らずに座っている高校生。親から貰う昼飯代を削って名画座を回り、その感想をひたすらノートに綴っては「俺は他とは違うのだ」と一人孤独に嘯いている。そして、同じような立場の友人であるカワボンとタクオと管を巻いて「いつかでかいことを成し遂げてやる」と息巻いてはいるが、しかし何をしたら良いのかわからないそんなところから物語は始まっている。

 

 賢三と『ぼっち・ざ・ろっく!』後藤ひとりの境遇はよく似ている。後藤ひとりも賢三と同じようにクラスで孤独な高校生であるし、「バンドを組みたい」と願いながらも踏み出せずに中学三年を無為にしている。おそらくぼざろ視聴者にグミチョコを勧めた人も、まずこの点が頭にあったであろう。

 

 しかし、実は賢三とひとりの抱える鬱屈は対極にあるのではないか?と私は思うのだ。確かに後藤ひとりと大橋賢三は、一見同じような境遇で同じような悩みを抱いているかのように見える。ひとりも賢三も、人前でチヤホヤされたいと願っているし、他者から承認されたいと心の底で思っている。

 

 では二人が決定的に異なる点とは何か。それは、後藤ひとりが抱かなかった「他者へのマイナス感情」を大橋賢三は山ほど持っている、という点だ。

 

 後藤ひとりは作中一貫して他人を蔑まない。陽キャパリピへの偏見はあるが、それは「自分は彼らと違う人間で、馴染むことができない」という自分への卑下に繋がるものでしかない。「陰キャだから」「コミュ障だから」と自分を蔑み、それによって自己の境遇を納得させる。後藤ひとりは自虐によって自己を守っているのだ。

 

 一方の賢三はひとりとは異なり、積極的に他人を蔑むことを選んだ。あいつらは自分を虐げ、笑っている。それはあいつらが劣っているからであり、自分の価値が分からないからに他ならない。だから、自分がクラスという社会で認められないのは仕方がないし、燻っているのも納得できる。そうして自分を取り巻く世界を憎むことで、賢三は自分自身を守っているのだ。

 

 さらに違いとして挙げられるのは、「自分は何者であるか」という悩みの有無にある。

 

 後藤ひとりは、「自分が何者であるか、何を成せるのか」なんてことではおそらく悩んでいない。それはギターヒーローとしてそれなりの裏付けがあるのも当然考えられるし、また「自分はギターで食っていくより他に道はない」と決めて高校中退を夢見ていることからも推察できる。後藤ひとりの場合、目標がはっきりしている上に自分の才能も自認しているのだから、「バンドを組めるか否か、音楽で成功するか否か」と悩んでも「自分が何者であるか」なんてことでは今更悩もうにも悩めないのだ。

 

 では大橋賢三はどうか。

 賢三は同年代の中では沢山映画や本を見聞きしているし、「自分は人とは違う」と思い込んでいる。

 しかし、それだけなのだ。思い込んでいるだけに過ぎず、自分がどんな分野で大成できるのかも分からない。だから、一体何に注力すれば良いのかも分からないそんな状態なのだ。なので、「自分は何者であるのか」と頭を悩まし、足踏みばかりを続けている。そして「もしかすると何もないのではないか」という恐ろしい現実を直視することを避け、何となく時が過ぎるに任せている。

 

「後藤ひとりは既に持っている人で、大橋賢三は真に持たざる人だ」という話がしたいのではない。ひとりも賢三も、鬱々とした場所から抜け出して活躍したい、という点では共通しているし、それが作品のテーマの一つとなっていることは疑いがない。

 

 ただ、私はどうしてもこう思ってしまうのだ。

「賢三は俺だ、俺なんだ!」と。

 周囲の世界を恨み、自分は人とは違う、人にはない何かが確かにあるはずだと信じずにはいられない賢三を見ると、私はどうしても他人事とは思えずに共感してしまう。かつて自分も教室の隅で小さくなっていた時、クラスで騒がしい人々を恨まなかったか?自分の方が価値あることを知っていると一度たりとも自惚れなかったか?「自分が孤独なのは周囲の環境が悪いからだ、自分の価値が分からないから友人ができないのだ」と思い込まなかったのか?

 私の場合、全て嘘だった。他人を妬み、僻み、周囲を下げることによって自分を守っていた。今ならそんなことに価値が無いと分かるが、当時はそうせざるを得なかった。そうしなければ、一言も喋らずに日々を過ごす自分を正当化することができなかったから。

 一人が苦しかったし、辛かったし、自分には見えない価値があるんだと信じたかった。

 そんな惨めな苦しみ言ってしまえば全然見栄えのしない感情に「お前だけじゃない」と寄り添ってくれたのは、やはり『グミ・チョコレート・パイン』の大橋賢三だったのだ。

 

 繰り返すが、こんな苦しみは滅茶苦茶格好が悪く、死ぬほど惨めでダサい。共感できない側からすればただただ不快に映る可能性の方が高いし、描くことによって得られる加点は少ないだろう。もし仮に後藤ひとりが他人への愚痴を垂れ流すような人物であったのなら、ぼざろは今ほどの人気を得ていたとは思えない。実際、「ぼっちちゃんは周囲を恨まない優しい子だから好きだ」という感想もいくつも見た。私もそう思う。

 

 だからこそ、人前では言いづらい澱んだ感情を「大橋賢三」という人物を描くことで克明に映し出してくれたグミチョコは偉大であると思うし、少なからず「俺だけじゃ無いんだ」と救われた人はいたと思う。

 

 

・転がり落ちる賢三

 

 物語の展開も真逆である。

 後藤ひとりは道中色々ありつつも、作詞や初ライブ、文化祭ライブと順調に課題をこなして実績を積んでいった。明確に挫折らしい挫折といえば未確認ライオット位なもので、それも事務所入りという次に進む糧になる挫折であった。道のりはともかく結果だけ見れば、かなり順調にステップを踏んでいると言えるだろう。

 

 では大橋賢三はどうか。賢三は作中、あらゆる試練に対して一貫して負け続ける。上中下巻かけて、徹底的に挫折し続ける。

 折角4人でバンドを組んだものの、楽器が弾けなければ機材にも明るくなく、作詞を任されるも後から加入した山之上に才能で劣ることを自覚させられる。

 居場所を見つけられずに焦り苦しむ賢三。追い討ちをかけるように、初恋の人であり憧れの人である山口美甘子がアイドルと性交に及んだスキャンダルが耳に届く。

 その瞬間に賢三の心は根元からポッキリと折れてしまうのだが、その際の描写が生々しい。衝動的に窓から飛び降りて学校から走り去ったかと思えば、仲間達を前に「自分が美甘子で自慰をしたからアイドルとセックスしてしまった」と妄言を放ち、その後ショックで一月の間部屋で引きこもってしまう。完全にうつ病である。

 一介の少年に対し、あまりにもあまりな仕打ちではある。しかし私は、ここまで徹底して賢三を追い込むことによってのみ、賢三が自身を守っていた「自分には何か分からないが才能があるはずだ」という仮初の盾を壊すことができるのだと思う。

 

 賢三が抱いていた「何者かになりたい」という願いは、「実は自分には何もない」ことに対する恐怖の裏返しである。何者にもなれないとは、自らの存在に価値がないことが白日の元に晒される恐怖である。それまで散々「自分は他の連中とは違う」と自らを守ってきた仮面が剥ぎ取られてしまう。試され、ジャッジされ、堂々と「お前は何の才能もない無価値な存在で、今まで馬鹿にしてきた連中と同じかそれ以下だ」と言われる。賢三のような人間にとってそれは、自らと向き合うことに対する恐怖に他ならないのだ。

 

 ならば、この恐怖の根幹とは何か?

それは恥だ。自分は本当はこんなもんじゃない、もっとやれるんだ、そういう気持ちの裏には「現在の自分はみっともない」という恥の意識がある。自分が認められない、人前に出ることができないという恥である。

 

 そして、この恐怖や恥に寄り添うのは至極難しい。というのも仮に「いやそんな事はない、お前にも価値はある」と言ってくれる心優しい人々が現れたとしても、当事者からしてみればそれは「持っているものが持たざるものに見せる哀れみ」としか映らないからだ。本当に共感してくれているわけではない。同じ立場ではない。だからより孤独だし、自分を哀れに思ってしまう。賢三もそうだ。仲間であるカワボンやタクオがどれだけ心配したところで、彼らにはバンドの役割があり、賢三にはない。それが余計に賢三を追い込み、苦しめる。

 

 「仲間がいるから」とか「ありのままの自分で良い」なんて現状を肯定するような言葉では、賢三の肥大化したコンプレックスは解消しようが無いのだ。それを解消する為には、彼の抱える「才能が欲しい」とか「いつか美甘子に追いつき、振り向いてほしい」という執着を捨て去り、視野狭窄に陥った自分自身を否定しなければならない。その為にも賢三は、一度己のコンプレックスと徹底的に向き合い、自分がどう生きたいのかを問い直す必要があったのではないかと私は思う。

 賢三が如何に自分の苦しみから脱し、どんな結末に至ったのかというのはここでは書かない。が、絶望の淵からの彼の再起に深く共感し、「俺も頑張るよ、賢三」となれた事だけは書いておく。かなり破茶滅茶な道のりの末に感動させられるので、未読の方は是非。

 

 

 

 

・ぼざろとグミチョコが語るもの

 

 ではこの二作が描こうとしているのは全く別のことなのか。

 いや、そうではない。

 

 それまでの人生が鬱々としたものだった後藤ひとりは、自分から一歩ずつ踏み出すことによって「バンドを組みたい、チヤホヤされたい」という夢を叶えていく。それは当然、ギターを練習してきただけではない、他人とコミュニケーションを取ることによって自分の世界が広がっていった結果である。

 無論、ひとりもその過程で全く失敗を経験していない訳ではない。虹夏とリョウとの初ライブは実力を発揮できずに散々な出来であったし、喜多ちゃんを上手く誘うこともできない。その度にひとりは傷つくが、それでもまた立ち上がっている。失敗する痛みを覚悟の上で、ひとりは世界に挑んでいるのだ。

 そんな広い世界への挑戦が『ぼっち・ざ・ろっく!』では描かれていると私は思う。

 

 グミチョコも同じだ。高校のクラス、仲間内という狭い世界に閉じこもっていた大橋賢三は、山口美甘子やバンドも結成をきっかけとして外の世界に目を向け始める。ぼざろが決定的な失敗をしない場合であるのなら、グミチョコはその逆。バンドでも恋愛でも滅茶苦茶に挫折を繰り返して傷つき、一時はどうにもならないほどに落ちぶれてしまう。

 それでも賢三は再び立ち上がり、自分の殻を打ち破って世界に挑戦することを選んだ。どれほど絶望し、もうこれ以上落ちようがないところまで落ちてからでも再起し、走り出す。グミチョコもまたぼざろと同じ、外の世界へと挑戦していく物語なのである。

 

 だから私は、2つの物語が同じことを描いているのだと思うのだ。

 

自分の殻に篭るのを止め、傷つくことを覚悟で外の世界に飛び出していく。

叩きのめされるかもしれない。二度と立ち上がれなくなるかもしれない。

それでも、自分というものが何なのかを知る為、世界に試されにいく。

 

 青春とは、小さな世界から飛び出していくことと、挫折を乗り越えていくこと。

 まさしく「凍てつく世界を転がるように走り出した」なのではないだろうかと『ぼっち・ざ・ろっく!』と『グミ・チョコレート・パイン』を読んだ今、しみじみと思う。

 

 

 

 余談になるが、物語序盤の大橋賢三をズバリ歌っている曲として筋肉少女帯蜘蛛の糸』があるので、是非聴いていただきたい。


www.youtube.com

「くだらない人達の中で、君はどうして明るく笑うの」

という歌詞の一節をグミチョコ作中に見つけた時は、思わず「これ『蜘蛛の糸』じゃん!!!」と叫んでしまった。その位同じテーマを歌っているというかもう『蜘蛛の糸』の小説化と言ってもいいかもしれない。まあどちらも大槻ケンヂ作なので当然なのだが。

 自分をとりまく薄暗い世界に絶望しながらも、「背中ごしに笑うあの娘 あなただけはとても好きだよ」と光を見出してしまう一節が悲しく沁みる、大変良い歌である。

 筋肉少女帯で他に私が好きなのは『機械』『あのコは夏フェス焼け』『僕の歌を総て君にやる』とか。自分自身がダメ人間なので、そういう人間が頑張る歌が好きなのかもしれない。