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虚構を背負おうとすること─『劇光仮面』感想

 

 これは、人間が虚構を背負おうとする話だ。我々がテレビで見る特撮ヒーローというのは当然「虚構」であり、我々の生きるテレビのこちら側、現実には存在しない。しかし、虚構を形作るもの、例えばスーツなんかは確かに現実に存在する。であれば、現実に生きる我々が虚構を背負うことも可能なのではないか?これは、そういう話なのだ。

 しかし冷静にというかどう頭を捻ったってそんなことは無理だ。なぜなら我々が生きる現実に虚構が存在する隙間が無いから倒すべき敵もいなければ、人間は金を稼いで飯を食わなきゃいけないし、銃刀法なんてものも存在する。だから、我々が「ヒーロー」になるのは無理なのだ。仮にスーツを着たとしても、それは着ただけ、「ヒーローごっこ」に過ぎない。現実に生きる自分というものがあり続ける限り、真にヒーローになることは不可能なのだ。

 だが恐ろしいことに、この物語の主人公実相寺は本気で虚構を背負おうとする。

 

 その姿を見ている私の脳裏には、あるアニメが思い浮かんだ。

 「アイドルは、神か生贄か。」

 このあまりにもセンセーショナルな問いかけを行ったのは、『少年ハリウッド』というアイドルアニメだ。アイドルとは、ファンに望むもの全てを与える神か、あるいはファンに全てを捧げる生贄か。どちらにしても、もはやアイドルは人間では居られないそんな強烈なアイドル哲学を『少年ハリウッド』は視聴者に叩きつけてきた。

 劇光仮面もそうだ。「ヒーロー」の物語を背負おうとするものは、自分というものを捨て去れなければならない。生活のこと、社会のこと、自分のこと、それら全てを捨て去った後、生まれた空白にしか「ヒーロー」は入れない。劇光仮面は、個人が虚構を背負おうとする姿、すなわち究極の滅私を我々の眼前に突きつけてくる。それは現実を生きる我々にとってはあまりにも強烈で、眩暈がするほどに突飛な話だ。もし仮にそんなことをしようという人間がいるのならそれはもうまともな人間ではない。彼は狂っている。

 背負おうとする態度も狂っていれば、背負おうとする物語も重過ぎる。戦争や原発事故への怒りが特撮作品のバックボーンとなったことが度々語られる。そういう現実の下支えの上に虚構である特撮作品の物語は存在する。そしておそらく、実相寺はそんな虚構をバックボーンたる現実も含めて背負おうとしているのだ。「そんな無茶な」と思ってしまう。何故なら戦争で苦しみ死んでいった人々日本人だけで300万人の死である。その痛みは虚構の物語だからこそ背負えたのだし、作り手も仮託できたのだ。しかし、実相寺はそれすらも虚構たるヒーローとして背負おうとする。それは、一個人が背負うにはあまりにも重過ぎる物語のはずなのだが

 

 現実を生きる我々が、虚構を背負おうとすると何が起きるのか?虚構の存在であるヒーローは、悪に立ち向かう。現実にも悪はある。毎日どこかで殺人事件は起こっているし、さらに言えば圧政や紛争などといった大きな規模のものまでありふれている。しかし、それは警察や国際社会だとかが解決すべき問題であり、少なくともヒーローが立ち向かって良いものではない。がおそらくこの『劇光仮面』はそういう話をしようとしている。冷静に考えてそんなことは殺人事件だとか戦争だとかに立ち向かうなんてことは土台無理なことであり、一個人がどう頑張ろうと物語のヒーローのように鮮やかに解決できることなどあり得ない。だから我々は「そんなのは無理だ」と鼻で笑う。しかししかし、本気で虚構を背負おうとする実相寺の姿を見ると、そんな取ってつけた冷静さが揺らいでくるのだ。「こいつは、やる。」と。本気で虚構を背負おうとする人間が、「ごっこ遊び」で終わるのか?そんなわけは無いのだ。

 何がどう転んだって、この現実でヒーローという虚構を全部背負って立つことなど一個人には到底無理な話なのに、「やったらどうなるか?」という実験が始まっている。絶対に上手くいくはずが無い、というか失敗して破滅するに違いないことをやろうとしている。私には、猛烈な勢いで壁に突っ込んでいくトロッコが見えるようでならないのだ。実相寺の瞳を見ると、「公園でゴミ拾いをするのもヒーローだよね」みたいな軟派な落とし所は絶対に有り得ないだろう

 ヒーローや特撮作品を扱った作品にありがちな冷笑的な視点を完全に飛び越え、そこに内在する虚構と現実を薄皮一枚まで肉薄させる冷たい狂気。『劇光仮面』という超特急は、一体我々をどこに連れていくのだろうか。今はただ、見守る事しかできない。