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『まちカドまぞく』6巻 『ジョジョ第6部』から見る「悪」の問題

 

 

 ※この記事は『まちカドまぞく』と『ジョジョの奇妙な冒険6部』のネタバレを一切気にせずに書きます。

 

 

 物語において悪とされる人物が現れ、世界を良くするために悪事をしていると嘯いた時、作品はどのように答えるのか。現在まんがタイムきららキャラットで連載中の『まちカドまぞく』6巻を読んだ時、私は上のようなことを思いました。そこで今回は、『ジョジョの奇妙な冒険 第6部』を引き合いにして、物語における悪とそれに対する答えについて考えていきます。

 (一応事前に言っておきますが、これは「どちらが優れていて、どちらが劣っている」という話をする為ではありません。)

 

・「悪」について那由多誰何とプッチ神父について

 

 『まちカドまぞく』6巻に出てきた那由多誰何と、『ジョジョ6部』に出てきたエンリコ・プッチ。彼らは目的のため、作中で多くの人を殺めます。彼らが人々を殺めて回るのは、物語上でも私たちの一般的な倫理観から言っても「悪」です。特に那由多誰何について言えば、「日常物」を謳うまんがタイムきらら系列の雑誌でこれを連載しているというのは掲載時や単行本発売時には話題になるほどに衝撃的な人物でした。

 ですが、悪い事をしている、という点ではジョジョは各部で沢山出てきますし、その点で言えば別にプッチを取り上げる必要性はありません。ではプッチは他の敵と何が異なり、そしてどのような点で那由多誰何と共通点があるのでしょうか?

 那由多誰何とエンリコ・プッチこの二人は最終目標として「世界に関わる大きな話」をします。私はどちらかというと、惨たらしく殺人を行なっている事よりもこの大きな話をしている姿にこそ彼らの魅力があると思っています。

 誰何は「かわいそう」を根絶するため、「かわいそう」を生み出す世界の構造そのものを「間違っている」と断言。現状の世界の破壊、そして「かわいそう」のない世界へと再構成することを目論みます。そして手始めとして、彼女が「かわいそう」と感じる存在光の側によって追われるまぞくの虐殺を行いました。かつて千代田桜が築いたシェルターであるせいいき桜ヶ丘で匿われていたまぞくを殺して回りますが、桃の決死の抵抗で無力化され、物語からは一時退場します。

 一方、第六部の敵であるプッチは、人々が自身に起こる運命を予め知っている世界メイドインヘブンを成そうとします。それは、プッチが彼の妹と弟の身に起きた悲劇を目の当たりにした事をきっかけに、運命というものを過剰に信奉するようになったからでした。そして、何が起こるのか分からない今の世界を否定し、運命の力が隅々まで行き届いた世界を創造せんとしたのです。

 二人に共通するのは、「今の世界を否定し、全く異なる世界を創造すること」という大目標がある点です。二人とも自身の目的について「自分のためではない、世界のためにそうするのだ」と語ります。つまり、「この世界は間違っている」という問いかけを主人公らに行なっているのです。

 

 私は常日頃何かを読む時、作品には作者が描いた主題というものが存在している、と考えています。例えば「正しいとは何か」や「悪いこととは何か」といった哲学的な主題や、家族や友情といった価値観に至るまで、意識してか無意識かは別として作品には描かれていると思っています。そしてそういった主題が表面化しやすいのが、主人公と対立する者の語ることすなわち作品そのものへの問いだと思うのです。

 

 DIO吉良吉影のような「ただ自己の快楽の為に命を奪う」という敵であれば「お前の欲望は間違っている」と言えばいいし、それで答えは完了します。それと同じように、相手が「大きな問題」を提示しているのであれば、主人公たちは「お前の示す問題は間違っている」と言わなければならないように思うのです。

 

 誰何やプッチに対しても「自分の話を拡大して押し付けるなや!」と言ってしまうことは十分に可能です。しかし、それはただ彼ら個人に対する答えに過ぎず、彼らが世界に問うた理想に対しては何の回答にもなっていません。

 「正義には別の正義がある」という言説もありますし、それを主題とした作品があることも分かります。しかしそれとは別に、作品には「作品の正義」とでも言うべきものがあると私は思っています。この作品において、作者は何を是とし何を非としているのか。その価値観こそが、作品の正義であると思うのです。

 それが可視化されるのが、作品としての問いかけ、つまり誰何やプッチの持つ思想に対して、主人公もっと言えば作品はどんな答えを出すのかという場面です。読者の側からしても、彼らのやり方は間違っているし、肯定されて良いものではありません。彼らが何故間違っているのか、という議題について読者として考えることもできますし、答えを出すことができる人もいるでしょう。ですが、所詮それは読者の勝手な空想に過ぎません。作品の中で出された問いには、作品の中で答えを出すべき私はそう思います。

 

 だから、「犠牲が出てるから間違ってる」という答えになると「答えにはなっていないな」と思わずにはいられないでしょう。方法ではなく、目的そのものに対する否定でなくては、作品としての完全な回答にはならないように思うのです。

 

・問いかけと答えジョジョ6部』の場合

 

 では、『ジョジョ第六部』ではどのような問いが行われ、そしてどのような答えを出したのかを見ていきます。

 プッチは目の前で起きた悲劇に対し、「何故こんなことが起こるのか」と慟哭します。彼は「悲劇が起きたこと」そのものに絶望したのではありません。双子の弟がすり替えられたこと、自分がすり替えた犯人の告解を聞いて事実を知ってしまったこと、弟と妹がそうと知らずに好きあってしまっていること、そして自分が良かれと思ってやったことが妹の死という最悪の結果を招いたこと何か一つでも起こらなければ発生しなかったであろう「運命」というものの残酷な偶発性に対して、どうしようもない疑念を抱いてしまうのです。それは、出会うこと、起こることすなわち現在の世界のあらましそのものに対する疑念でした。

 そんなプッチが辿り着いた一つの答えメイドインヘブンによって生み出された「神の国」とは、「全ての事柄は運命によって定められており、そして人々も自分の身に起こる運命を完全に知っている世界」でした。一巡した世界、すなわち全ての人が自分の人生を一度経験し、自分の身に何が起こるのかを既に「知っている」世界です。

 決まっていることなら、運命で確定していることなら納得ができるし、疑念を持つことで苦しむこともない。何が起ころうと苦しいことや辛いことが起こることが運命として分かっているのなら、納得ができる。理不尽な思いをしなくてすむ。だから、定められた絶対の運命を前にして人はただそれを黙って受け入れろ、という意味で「覚悟」と彼は口にするし、この世界によって人々は苦しみから脱することができると本気で信じているのです。

 彼の野望を阻止するため、徐倫たちはプッチから逃れんとします。しかし、メイドインヘブンの「時を加速する」能力の前に、仲間達は次々と斃されて行きます。主人公の徐倫さえも、エンポリオを逃すためにプッチの前に立ちはだかり、命を落としました。

 

 そんなメイドインヘブンによって創造された世界の中で、エンポリオとプッチの最後の戦いが始まります。運命に支配された世界でエンポリオは追い詰められますが、ウェザーリポートのディスクによって形成は逆転。自身の「時を加速する」能力を逆手に取られ、プッチは追い詰められます。

 土壇場でプッチは、「『覚悟こそ幸福』という事を思い出してくれ!」と絶叫し、自身の目的の正当性を語りながら命乞いをします。

 そんな彼に対し、エンポリオは「お前は運命に負けたんだ。正義の道を歩む事こそ運命なんだ」と高らかに言い放ちます。

 それは、プッチのやっていることが余計なお世話だからだとか、殺人という手段が悪いだとかいうプッチ個人の姿勢や手段に対する答えではありません。エンポリオのこの台詞は、プッチの語る理想そのものを否定する答えです。プッチの理想とする「結果を知っているだけの運命」は、ウェザーや徐倫の勇気と正義によって託されたDISCにより、今まさに打ち倒されんとしている。

 この受け継がれて今エンポリオの手にあるDISCこそ、プッチの語る運命や「神の国」こそ偽りであり、彼女達が正義と信じて歩んできた運命こそが正しいものであるという、プッチの問いに対する完璧な答えとなっています。そしてそれと同時に、これまでの徐倫たちの物語のジョジョ第六部という物語が「正義の物語」であるという作品のメッセージへと繋がっているのです。

 

・問いかけ『まちカドまぞく』の場合

 

 上ではプッチと彼の提示した問題に対し、作品がどう答えたのかという話をしました。

 では続いて、『まちカドまぞく』における那由多誰何と、彼女のもたらした問題について見ていきましょう。

 

 誰何は「ぼくの願いはこの世全てのかわいそうを根絶すること」であると語ります。それは、かわいそうが存在する世界の否定です。誰何にとってかわいそうな存在に価値はなく、否定しなければならない存在なのです。だから彼女がかわいそうと感じるまぞくは、自分に食われるだけの餌としか認識できない。そして、悲しみや苦しみが生まれるこの世界の構造そのものを否定しようとしていたのです。

 

 かつて町にいたまぞくを自分の目的の為に殺害していたという点もそうですが、食物連鎖という構造そのものを否定せんばかりの誰何の理想は、作品がこれまで築いてきた価値観から言っても全く受け入れられるものではありません。まぞくの殺害に加え、幼い桃を自分の目的の為に利用し、抵抗すれば躊躇いなく傷つける。誰何の行いは、作中の倫理からしても到底許されるものではないでしょう。5巻の時のような和解という妥協点すら全く見出せない、絶対に受け入れることのできない対象、まさしく「悪」と形容して然るべき存在です。

 

 誰何の問いは「守ること、維持すること」を否定し、「今の世界を破壊し、再構築するべき」という問いです。それはかけがえのない日常を維持することを是としてきた『まちカドまぞく』という作品そのものへの問いかけでもあります。  

 だからこそ、誰何の問いへの答え「それは間違っている」という明確な答えが必要だと考えます。その答えがあってこそ、作品としてのメッセージがよりはっきりと浮かび上がってくるように思えるのです。

 第6部でもそうです。プッチの語る「これから起こることを知っている状態」は読者の我々に全く共感できない、という訳ではありません。それなりに筋の通った理屈ですし、プッチの身に起きたことを思うと何なら少しは「良いな」と思ってしまいます。そんな読者の抱いた弱さや共感に対しても、エンポリオの言葉は「それは間違っている」という強烈な否定として響きます。筋が通っているからとか、そんなことは関係ない。悪に対し、作品のメッセージとして「お前のやっていることは正しくない、それは悪だ」と、はっきりと言葉と在り方で示すことが、物語をひいては物語を信じる読者を救うこととなるのです。

 

 正直にいうと、『まちカドまぞく』がこのような明確な問いを出してきたことに対し、「面白い!」と思うと同時に困惑しました。

 私は当初、作中で引き起こされる出来事というのは、台風のような自然災害、つまり意志のない物であると予想していました。そういう対象であれば、シャミ子たちはそれに対処することで物語は成立するし、「町を守る」という主題にも答えられます。しかし6巻で明かされた災厄(の一端)である那由多誰何は、我々と同じように明確に意志のある存在であり、目的を持って日常の破壊を行う存在です。そして彼女の持つ「かわいそうのない世界」という問いは、作品の根幹に関わるようなスケールの大きな問いかけでした。

 はっきり言って、那由多誰何という存在を出さずとも『まちカドまぞく』という物語は終わらせることはできたと思いますし、私もこういう明確な悪が出てくるとはそんなに思っていませんでした。だからこそ、これほどまでに魅力的な悪が出てきたことに一読者として「面白くなってきた!」と興奮したのを覚えています。と同時に、彼女のもたらした「かわいそうのない世界」という作品の根幹に関わる問いが現れたことによって、私の中では「那由多誰何のもたらした問いに対する答え」という軸が作品を見る視点に発生したのも事実です。

 

 那由多誰何という悪の存在、そして『まちカドまぞく』という作品に対して作り手がどんな答えを出すのか。正直に言えば期待半分、不安半分と言ったところですが、一読者としてとても楽しみにしています。