覚え書き

色々書く予定

塩原まほろについての一解釈 『ぎんしお少々』より

 

 『ぎんしお少々』最終話からほぼ一月が経ち、段々と自分の気持ちも整理されてきたので、少しずつ感想めいたことを書いていきたい。

 

 というわけで今回は、塩原まほろについて、今自分が思っていることを書く。

 

 初めにことわっておくと、今回はかなり憶測混じりの記事になるので、注意してください。毎度のことながら、「私はこう読みました」というだけの話です。

 

 塩原まほろという人物をどう解釈すべきだろうか。

 彼女は妹のもゆるを「視野が狭い」と評したり、鈴を「妹さんの気持ちに自信が無い」と見抜いたりもする。思うに、まほろは自分が関与していない人間関係に対しては適切な評を下すことができるし、大人として接することができる。

 しかしそれは同時に、もゆるや鈴たち高校生とは同じ目線には立てないことでもあるだろう。これはかなり断片的な情報からの憶測に過ぎないのだが、今のまほろなら「気味が悪い」とは言わないだろう。今現在の彼女の言動は良くも悪くもニュートラ鈴が「何も知らない」と言うように、自分の本質的な部分を他人に晒そうとはしていない。その姿を見ると、今の塩原まほろという人物は周囲に対して(意識してかはさておき)一定の距離を置いて接しているように思えてならないのである。

 

 では、そんな現在のまほろを形作る基礎がなんなのかと言えば、20222月号の過去回想にあると私は考えている。

 自分の撮った写真がコンテストに入賞し、衆目の場に貼り出される。それを見たまほろは「気味が悪い」と漏らし、写真への熱を失う。

 もし高校生の頃のまほろがもう少し割り切ることができたのなら、コンテストと距離を置いて写真に向き合うこともできたかもしれない。写真部も存続したかもしれない。しかし、実際にそうはならなかった。彼女は「自分の撮ったものを第三者に作品として見せる、評価されるもの」としての写真や写真部の在り方を拒絶し、結果として写真部は廃部になり、入部希望の生徒も無下にしてしまう。

 当時は自分の行為に自覚的ではなかったまほろだが、後から入部希望者の存在を聞き、「自分の行動で、将来入部できたかもしれないもゆるの可能性を狭めてしまったかも」と後悔する。この経験言ってしまうと自らの感情に任せた後先考えない行為とそれに対する後悔の念が、現在のまほろのやや物事を俯瞰して見る姿勢の元となったのではないか、と思うのだ。

 

 「選択に対して責任を負える」というのは成熟した人間であるように私たちは思いがちだ。ではその自責の念はいつ解けるのだろうか?もゆるはおそらく写真部が廃部した事情を知らないし(本人の性格的にもそこを詮索はしないと思う)、まほろも聞かれなければもゆるに話すことはないだろう。「かもしれない」に端を発した後悔と負い目を、まほろはひっそりと抱えたまま過ごしていた。それは、鈴が銀に「貴方のおかげで今私は楽しいんだよ」と伝えられなかったように

 

 これは憶測だが、上の経験からまほろは人との繋がりが希薄になっているように見える。もゆるの「お姉ちゃんはあまり友達を家に連れてこなかった」という言葉(これだけで何かを判断するのは早計とは思うが)や作中で現在友人らしい友人の描写が全然無かったことからも、高校以降のまほろには家に連れ込むほどの深い交友関係を築かなかったのではないかと勘繰ってしまう。

 (まあこれに関してはどこまでも憶測の域を出ないのでなんとも言えない上に、単行本の描き下ろしでひっくり返る可能性がそこそこあると思っているので与太話程度に留めておいてください。)

 

 以上のことから、塩原まほろについて、決して人との間に目に見えた距離を作ろうとするわけではないが、同時に自分をあけすけに見せようとしない、俯瞰した目線の強い人物であると私は思うのである。

 

 そして、もゆるが自分と同じ道を辿ってしまうのではないか、という不安「コンテストとか気にせずに、写真を撮ることを楽しんでほしい」という気持ちも、もゆるを前に口には出さない。それは「先」を熱意が醒めてしまった自分の体験を知っているが故の不安であり、「ただ写真を撮るのが好き」だけでは居られなくなってしまうという、訪れるかもしれないもゆるの未来への恐れでもあるのかもしれない。

 そうやって感じた自分の正直な気持ちを、まほろはそっと抱え込んでいたのだと思う。

 

 

  

 自分の感じる後悔や不安を話すまほろに、鈴は「まほろさんの『楽しい』という気持ちは伝わっています」と答える。以下、自分の解釈を語る。

 

 まほろの在り方によって楽しげに写真を撮るその姿から、鈴は影響を受けた。それは写真部を残すとか残さないといった行為以上に、まほろ自信の在り方によって今の鈴が、そしてもゆるがいるんだよ、ということを鈴は思ったのではないか。

 「寝つきがいいことくらいしか知らない」と言っていた鈴も、実は「まほろが本当に楽しそうに写真を撮っている」ということを知っていたし、その姿を見て自分が写真に、そして銀に対する自分の気持ちに今一度向き合うことができた、というのも知っているのだ。

 だからこそ、先のことを考えなければという思考に引っ張られているまほろに、「貴方の在り方そのものから、私は『楽しい』という気持ちを受け取ることができた」と言いたかったのではないか。

 

 鈴も銀に対して「楽しい」と伝えられていないという自信の無さを抱えている。そんな鈴だからこそ、同じように妹へ自分の気持ちを伝えられないまほろの気持ちに寄り添えたのだろう。「波風立てず」から一歩進んでまほろの心の内に踏み込めたことが、鈴自信の内面の成長であるように思う。

 

 立ち入ることは、それによって関係を崩してしまうことにも繋がりかねない。今の関係が大事であればあるほどに、その人がどう思っているのかとか、触れてしまって壊したくないとか、そういう「未知の部分」に対する不安が増幅するように思う。そこから一歩進んで相手の内面に立ち入ろうとする鈴の気持ち相手を想うからこそ触れようと手を伸ばすその勇気と、それを誤魔化さずに受け入れるまほろの姿勢に、この二人の関係性の進展が見てとれるように思う。

 

 鈴の言葉は「貴方のおかげで今の私がある」という言葉であり、その言葉をまほろに伝えられたことに二人の関係の美しさを感じている。

 

 これまでの『ぎんしお少々』では、自分の気持ちを言葉にして伝えられないこと、伝わらないことの連続だった。だからこそ、「貴方の気持ちは伝わっているよ」と相手に伝えられることに大きな意味があると思えるし、それは本当に素敵なことであると思うのだ。

 

 

とりあえず「今の」塩原まほろというか20222月号掲載の話の解釈である。単行本が発売したら全く違うことを思っているかもしれないし、寝て起きたら「何だこいつ」と思っているかもしれない。それでも、とにかく今の自分はこう読む、という旨を書き残しておく。おそらく、また同じ内容で記事を書くことだろう。正直最後はだいぶ支離滅裂になっている感が拭えないが、しかしそれも偽りなき気持ちなので残しておく。