覚え書き

色々書く予定

『ぎんしお少々』における時間の表現について

 

 

 「時間」と聞くと、我々は真っ先に時計を思い出して、時計の尺度で刻まれたものだけが時間と思い込んでしまう。しかし、時間とはそれだけではない。人の内に流れる時に対して、時計やカレンダーの示す尺度は意味を成さない。例えば幼稚園や小学校の古い思い出が昨日の晩御飯の記憶よりもより鮮明で意味のある場合だってあるし、10代と30代とでは流れる時の速さが変わる、などというのもよく聞く話だ。この場合に用いられる時、時間という概念は我々の内面で形作られたものであり、決して外にある時計で刻めるものではない。この外からは見えない、自分の内面を流れる時間について考えていく時、自身の人生に対する認識や形作られた価値観といった自己というものが浮かび上がってくるように思えるのだ。

 

 というわけで今回は、この「時間」という観点から『ぎんしお少々』の二つのエピソードを紐解いてみようと思う。

 

 

 まず初めに、もゆると銀との出会いから「現像の待ち時間と自己を内省する時間の関係について」を話していく。

 『ぎんしお少々』においてまず最初にフィルムカメラの特性として描かれるのは、「現像までの待ち時間」である。フィルムをポストに投函してから現像されるまでの間、人にも同じだけの時間が流れる。この現像までの待ち時間こそが、人の内面に時間的区切りを与えているのではないか、と思うのだ。

 自分の言葉で銀に誤解をさせてしまい、居辛さからその場を逃げ出してしまうもゆる。しかしフィルムカメラには撮影してから現像された画像が手元に届くまでに時間的空白があり、それを待つ間、もゆるは否応なしに自分の置かれている状況へと向き合うこととなる。

 「そもそも待つことって、楽しいことなのでしょうか。」ともゆるは語る。現像を待つ時間とはすなわち撮った写真の出来上がりを待つ時間であり、上手くできたかとか失敗したかもとか…つまり被写体である相手と、撮影者である自分とについて考える時間である。もゆるの場合で言えば、相手である銀と、銀と上手くいっていないと自分とを鑑みる時間であった。

 そして現像されてきた画像を見たもゆるは、「上手くいかないから、また撮りたいと思える」という自分の気持ちに気がつき、銀と仲直りしようと決意する。現像を待つという自分を内省する時間があったからこそ、もゆるは自分の良くない点を振り返ることができ、勇気を持って銀との関係を再び構築しようと踏み出す事ができたのではないだろうか。

 中学の頃に上手くいかなかったと語るもゆるにとって、写真を撮る事と現像を待つ時間を介することによって自己と向き合う事ができたというのは、彼女の人生にとって意義のある一歩前進であるように思える。

「カメラを持って外に出ると 景色が特別に見える」

 まほろはもゆるにそう語る。しかし、特別に見えるのはカメラを持ったから、だけではないだろう。カメラを持って、自分自身に向き合えたからこそ、周りの世界が特別に見えるのだ。 

 写真を撮ることによって客観性を得る、という話は以前別の記事にも書いたが、今回の現像までの待ち時間の話も併せて考えると、『ぎんしお少々』とは真に写真と人間の物語であると言える。

 

 

 次に、かなめとセツナのエピソードから「時間の積み重ね」について話す。

 あらゆる経験、つまり経てきた時間の積み重ねによって人間は形成されている。そして、ほんの些細な事幼い頃の一瞬の出来事が、その人の人生の根幹にある、ということもある。

 かつて幼い日、かなめは英会話教室でセツナに話しかけられる。その優しさを忘れずにかなめは高校生となったセツナと再会するのであるが、セツナはそのことを全く覚えていない。そんな折、セツナは青写真の思い出をきっかけとして、英会話教室でのことを「楽しかった」と朧げに思い出すのである。

 私は初読の時、この話で大変感動したわけであるが、実際何が良かったのかというのを少し言葉にしてみたい。

 想起する、という言葉がある。知っているけれど思い出せないものを、何かをきっかけとして思い出すことを想起という。例えば昔通っていた中学校の前を通ると「ここ部活で走って辛かったな」なんて記憶を思い出すし、音楽を聴いて「通勤中に聴いていたな」と日々を思い出すこともあるだろう。そういう記憶思い出せないけれど内に存在する記憶というのは、自分という人間を形作ってきた時間の積み重ねである。それを踏まえると、思い出す、という営みは積み重ねてきた自分の再発見であり、同時に相手にとってはその人を形作る時間の一部を垣間見ることでもあると思うのだ。

  冒頭でも触れた通り、風花かなめという人物の根底には幼き日の若葉谷セツナとの交流人見知りでか細い思いをしていた自分に声をかけてくれたという思い出がある。そこから一旦別れ、高校生になって偶然再会し家に上がりこめるほどに仲良くなった訳ではあるが、それでも「自分がかつてセツナと出会っていた」という事実を相手に告げられずにいた。

 「青写真みたいね」という些細な一言から、セツナは自身の中に眠る記憶と「楽しかった」という思い出を蘇らせる。偶然にもそれはかなめが大事にしてきた幼き日の思い出と同じ時間であった。だが、仮にかなめがセツナに対して「昔こういうことがあって、私と貴方は面識があります」と訴えていたしても、今の形のように「思い出せ」てはいなかっただろう。人の記憶というのは当人の主観によって形作られた産物であり、同じものや同じ時間を見ていても全く同じようには記憶できない。例えば片方には良い思い出として記憶されていたとしても、もう片方にとってはそうではない場合は当然ある。だからこそ、かつてかなめと同じ時間を共有していたセツナがそれを「楽しかった」と回顧したことが重要なのである。 

 人間の中には時間の流れがあり、その上に今の自己が存在する。私たちは相手と対話をするとき、その表層に触れられはすれど、根底に流れる時間を読み取るのは容易な事ではない。それ故に、相手の中に自分が大事に思っている時間が積み重ねとして確かに存在して、その時間が相手にとっても綺麗な思い出として残っているという事実は、「時間の積み重ねの上に今がある」と語るかなめにとって何より意味のある事なのだと私は思う。

 現像時間について話した時、「内なる時間の尺度となる」ということを話したが、かなめとセツナの場合は「積み重ねた時間上の点としての写真」つまり過去からの積み重ねを想起・再発見させてくれるものとしての写真を描いているように思う。

 

 以上、時間表現に関する話として二つのエピソードを抜粋して話した。書いている途中、もしかするともっと俯瞰して見れば『ぎんしお少々』における写真というものに関しても何らか言えることがあるのではないか、と思い立った。しかしこれはかなり大きなテーマであり、今の自分にはこのテーマで書くのはあまりにも無謀であるように思う。書ける日が来るとするならば2巻をもっと熟読した頃になるだろう。

 

 実はこの記事は総括として筆を取ったのであるが、思えば私は『ぎんしお少々』について実は何も知らないのである。以前書いた記事を読み返してみても(大変読みづらかった)、「こいつ中々良いこと書いてんじゃん今の自分からは出てこないな」と感心してしまった。積み重ね、という言葉にある通り、一読者の営みたる読解も全て積み重ねなのである。他の人や昔の自分の読み方はもうできないかもしれないけれど、今は今の自分の読み方ができるし、それが自分にとって大事なことであるとも思う。