覚え書き

色々書く予定

華族の誕生─『紡ぐ乙女と大正の月』背景解説

 『紡ぐ乙女と大正の月』一巻重版おめでとうございます&三巻発売楽しみにしてます!

というわけで(?)、本作の歴史背景であるところの華族制度について、僭越ながら少しばかり解説の記事を書かせていただきました。『紡ぐ』本編はさほど予備知識を必要としない構成になっているので「絶対に知っておいてほしい!」という類のものでは全然ないのですが、華族制度について興味のある方は読んでいただけますと嬉しいです。

 基本的に浅見雅男著『華族誕生 名誉と体面の明治』『華族たちの近代』を元として書いています。入手するのも難しくない本ですので、詳しく知りたいという方は是非。

 

華族って何?

 時は19世紀の後半。江戸から明治へと時代は移り、江戸幕府を頂点とした幕藩体制から180度異なる政治体制へと近代化を伴った変革が行われました。では、その内側権力を握っている人間も全て入れ替わったのか?そうではありませんでした。それを象徴する存在が、特権階級である華族の存在です。

 

 華族、と聞いて何を思い浮かべるでしょう。私はこの漫画を初めて読んだ時、恥ずかしながら「鹿鳴館で踊っている燕尾服の雅な人々」位のイメージしかありませんでした。なんとなく偉そう、なんとなく裕福そう。実際、華族という字面からはそのくらいの情報しか得らないかと思います。そんな曖昧模糊としたイメージを払拭し、より実情に則したものにするためにも、今回は「華族の誕生」について見ていきましょう。

 

華族の誕生

 明治2年に行われた版籍奉還(藩主が領地・領民を天皇に返還すること)によって、それまで幕府の下で大名として権力を持っていた人々は一度その地位を失います。同じ日、当時の中央政府の行政機関から次のような布告が出されました。

 

「官武一途上下協同の思食しを以て、今より公卿、諸侯の称を廃せられ、改めて華族と称すべき旨、仰せ出され候こと。ただし官位はこれまでの通りたるべく候こと。」

 

 簡単に説明すると、「旧幕府時代には別々の階級であった公家と大名が協力するように」との天皇の意向に沿い、それぞれの名称を廃して共に華族と呼ぶようにする、という内容です。この一文によって新たに華族という地位が誕生しました。ここから始まった華族制度は昭和2253日の日本国憲法施行によって廃されるまでの間(第十四条「華族その他貴族の制度は、これを認めない」)、制度として存在し続けることとなります。

 

 ですのでその始まりに関して言えば「華族=高貴な人々」というよりは、それまで地位や権力があって高貴だった人々に対し、代わりとして華族という身分が与えられた、という方が実情には則しているでしょう。

少し詳しい解説



 

 この時華族となったのは、公家が142、大名が285、合計427の家でした。華族の数はここから段々と増えてゆき、大正15年には952もの家が華族になっています。

 

 では何故、かつての権力者だった彼らを優遇するのか。様々理由はありますが、ここではその一つを紹介します。

 華族の役割を現す言葉として「皇室の藩屏」というものがあります。藩屏とは「守護するもの」を意味する言葉であり、「皇室の藩屏」とは皇室、すなわち天皇の後ろ盾となる、という意味合いがあります。

 明治政府は明治天皇を頂点とする体制として成立しました。その性質上、天皇の権威の維持は政権安定の絶対条件でした。もし仮に人々から天皇制への支持が失われば、それ即ち政治体制そのものの不信へと直結する事を意味します。そして政治体制への不信が募れば、かつて江戸幕府が倒されたように政権転覆の動きが生まれることは想像に難くありません。

 そうならないためにも、平民からは一段上の特別な階級として、絶対的な地位である天皇の基盤を支える役割が華族には期待されていたのです。

 

 

爵位の誕生 

 ここまで華族の誕生について話してきました。しかし、『紡ぐ』を読んでいる方はこう思うでしょう。「爵位の話、してなくない?」と。作中でも爵位の差よる身分の上下が強調される通り、爵位華族の話をする上で切っても切り離せないテーマではあります。ですが、華族という身分が生まれた明治2年の時点では、爵位はまだ存在していませんでした。

 実は日本における爵位というのは、華族の後に生まれた制度なのです。

 明治1777日に「栄爵を設くるの詔」で華族爵位が与えられることが宣言され、同時に勅令(天皇からの法令)として「華族令」が公布されます。この華族令によって公、侯、伯、子、男の5つの爵位が定められました。これ以降、爵位を与えられることによって華族となる家が増えていきます。

 では、爵位は誰に与えられたのでしょうか?日本における爵位華族に与えられる称号であったため、それまでに華族となった家の戸主には勿論与えられました。また、それまで華族ではなかった武家や公家、さらには討幕において活躍のあった人物にも爵位が与えられます。爵位華族のものであるため、非華族爵位を与えられることは、すなわちその家が華族階級へと上がることを意味していました。

 ここで注意しなければならないのが「爵位は戸主に与えられて継承されるもので、家に与えられるものではない」という点です。華族とは「家」、つまりその家の家族全員を指すものなのです(この点で華族は戦前の家制度と密接に結びついているのですが、今回は触れません)。  

 『紡ぐ』作中の例で言うのなら、末延家の戸主、つまり唯月の父が公爵という爵位を持っています。そのため唯月自身は公爵ではありませんが、末延公爵の娘であり公爵と同じ家の戸籍に入っている為、華族の一員です。逆に言えば、平民と結婚するなどして公爵の戸籍から外れてしまった場合、唯月は華族ではなくなります。また爵位は原則として長男に継承されるものであるため、娘である唯月が継承することはできません。

ざっくりとした図

 

 上で華族の家の数については見ました。では、唯月のような家族を含めた「華族全員の人口」は一体どれくらいだったのでしょう。『華族誕生』によると、諸々のデータから華族制度ができた時の華族人口は2700人強、爵位制度ができた時は3400人弱との推測がされています。この間の日本の全人口は32003700万人程度なので、併せて考えると華族は当時の日本人の1万人に1人もいなかったこととなります。

 

 見てきた通り、「華族」という括りは「政治家」や「野球選手」のような、その人の職に基づいて呼ばれる呼称ではありません。華族とは、明治の初めに天皇から与えられた称号であり、れっきとした制度に基づく身分でした。

 さてここで鋭い方ならこう尋ねるでしょう。「明治政府は四民平等を押し出したはずでは?」つまり、明治時代には江戸時代の士農工商といった身分的な括りは廃され、建前上は平等な社会になったのでは?と。実のところ、明治時代は今の我々が想像するような「平等」な社会では全くありません。上で述べた通り、明治生まれの華族制度こそが江戸時代以前の身分制を引き継いで生まれた階級社会の産物なのです。

 現代でも政治家や大企業の社長といった地位や資産によって「偉そう」に見える人はいますが、法的な身分としては日本全国にいる一般の市民と何ら変わりありません。彼らも私たちも一般市民として等しく同じ行政のサービスを受けることができますし、同じ義務を負います。ですが、華族は違います。華族は法で決められた特権階級であり、当時の平民とは国から受けられる恩恵も異なっていました。

 華族となることの特権としては爵位が貰えることの他に、貴族院議員になれることや一時金や年金といった経済的支援を国から受けられることがありました。これらは彼らの働きや何らかの義務を果たすことによって与えられるものではありません。「華族だから」その地位にいるから、強いて言えば「華族として存在していること」に対して与えられる報酬でした。

 この点こそ、現代の価値観から明確に断絶していると言える点なのではないでしょうか。

 

 以上、簡単にではありますが華族制度の誕生について話しました。現代には全く存在しない制度と、それによって存在した一握りの人々のことを想像するのは中々大変なことです。ですが幸いなことに一般向けの書籍も数多く出ていますので、興味のある方は是非調べてみてください。