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原敬と近代日本─『紡ぐ乙女と大正の月』背景解説

 『紡ぐ乙女と大正の月』第3巻が来たる826日に発売します!

 というわけで、3巻冒頭でも出てくる政治家・原敬についての記事を書きました。

 

・「ところで、原敬って誰?」

 『つむつき』二巻の終盤、原敬暗殺の一報が唯月の父の下に舞い込みます。それまで進行していた紡たちの(言ってしまうと架空の)物語の中に現実の出来事が起こることで、作品は一気に時代性を帯びていくのですが

 

 と訳知り顔で語っているのですが、初読時の感想を偽らずに言えば、

原敬って誰だっけ?」

 でした。

 何となく頭の中で「立憲政友会」とか「政党政治」みたいな単語はふんわりとあるものの、それらは一切有機的に結び付かず、従って私の中のイメージも「なんか戦前にいた政治家」程度でしかなかったのです。

 

 というわけで、自分と同じような疑問を抱いている方に向けて原敬の紹介記事を書きました。特に日本近代の政治史における彼の立ち位置を詳らかにすべく書きましたので、ご興味ある方は読んで頂けますと嬉しいです。

 

 第19内閣総理大臣原敬。平民宰相と呼ばれ、日本近代史上初めて本格的な政党内閣を成立させた人物。高校の教科書では以上のように紹介されています。では、上の事柄が歴史の流れにおいていかなる意味を持っていたのか、という点を見ていきましょう。

 

 彼の功績をより分かりやすく理解するために、本記事では始めに明治に発布された大日本帝国憲法下での政治体制を大まかに説明し、その枠組みの中で政党内閣が成立したことの意義について語っていこうと思います。

 

大日本帝国憲法下の内閣・国会

 

 私たちが立法・行政機関とは何かと考える時、国会や内閣を想像します。戦前にも同じ名前の機関はありましたが、明治の始まりからあった訳ではありませんでした。

 時は明治初期。ごく限られた人物のみで行う官僚中心の政治であった当時の政府に対し、次第に人々の中から国民の声を反映させる議会政治を求める声が上がり始めます。

 そんな世論の国会開設を求める声に押され、1881(明治14)年、政府は1890年に国会を開設することを公約。1889(明治22)年には内閣や国会について規定する大日本帝国憲法が発布され、公約通り国会は開かれることとなります。

 

 では、当時発布された大日本帝国憲法では内閣や国会はどのように規定されていたのでしょうか。

 現在の日本国憲法の下では内閣・国会・裁判所はそれぞれ行政権・立法権司法権を担い、三権分立によって政治は維持されています。立法権を持つ国会は、国民の選挙によって選出された国会議員によって構成されています。そして行政権を持つ内閣は、国会議員の中から選ばれることで国民の信任を経て任命される形をとり、内閣は国会に対して責任を負います。

 しかし、大日本帝国憲法発布時の日本ではそれが異なります。内閣・国会・裁判所は同じですが、この憲法の下で築かれた国会は衆議院貴族院の2つによって構成され、選挙によって国民から選ばれているのは衆議院議員のみでした。貴族院議員は華族・勅選議員らによって構成され、彼ら特権階級にとって不利な法案は例え衆議院を通過したとしても貴族院で落とせる仕組みになっていたのです。

 

(実は以前の記事で取り上げた「華族令」は、貴族院を設ける為に憲法準備の過程で出されました。『つむつき』と関係する話を挙げると、唯月の父は公爵なので貴族院議員の席が与えられています。また伯爵・子爵・男爵の家も互選、つまり持ち回りで議席が与えられました。特権階級にある彼ら華族には、国民の意志とは無関係に政治に直接参加する権利があったのです。)

 

 そして、実際に政治を行う内閣にも問題がありました。私たちの感覚で言えば「内閣の成員は国会で多数派となった政党から選出される」のですが、当時の仕組みは異なっています。まず総理大臣は天皇によって任命されます。任命されるのは、天皇の近くにいて政治的地位のある有力者で、国民から選ばれた衆議院議員である必要はありませんでした。彼らが代わる代わる総理大臣を務め、内閣も総理大臣が都合の良い人物を選んで任命させることができたのです。

 ですので、憲法によって一見立派な議会政治が成立したかのように見えますが、「国民の代表である国会とは無関係に、行政機関の内閣が組閣できる」というのが実態であったと言えるでしょう。

 

 まとめると、当時の国会は憲法によって大幅に制限があり、内閣に対して国会が働きかけられる力が意図的に抑えられていました。国会開設の段階でこのような状況が成立していた為、国会議員らは始まりから不利な戦いを強いられていたと言えます。

 

藩閥・官僚閥

 

 では、総理大臣や内閣の各大臣に選ばれる人物天皇の近くで政治的地位のある有力者とは誰なのでしょう。それは倒幕で大きな貢献をした藩である薩摩・長州出身者や、元々天皇と近かった公家出身の人物であり、国会開設以前から官僚政治で実権を握っていた人々でした。

 

 彼らが組む政治グループ藩閥・官僚閥と呼ばれる派閥によって、国会開設後も継続して日本の政治は取り仕切られていました。そこに、原敬のような旧幕府側の藩出身のような派閥に属さない人物が取り立てられる余地は無かったのです。

 

 藩閥・官僚閥が支配的であった内閣に対し、衆議院では初期から議員らが政党を組んで影響力を強めていきますが、仕組みそのものを変えるには至りませんでした。

当時の国家機構。天皇に近しい元老は藩閥によって占められていた。山川出版社『詳細日本史B』p.284 

 

・民主主義への熱狂と政党内閣の成立

 

 そのような藩閥・官僚閥体制にも変化の時が訪れます。人々の間から脱藩閥・官僚閥政治の動きが起こり始めたのです。1912(大正元)年の第一次護憲運動1913(大正2)年の大正政変といった一連の政治運動は、政党・立憲政友会などが内閣を攻撃し、「閥族打破・憲政擁護」の声を全国に広げていった結果でした。

 国民からの権力の在り方を問う民主主義を求める声は、政府にとっても無視できないものとなっていったのです。

 

 当時、衆議院議員として政党・立憲政友会の総裁の地位にあった原敬は巧みに立ち回り、1917(大正6)年には寺内内閣の大臣のポストに就任。米騒動の影響で寺内内閣が解散すると、その後任として総理大臣に収まりました。原の総理就任には上のような脱閥族の運動も後押しとなり、反政党政治派であった元老の山県有朋が認めたことで、1918(大正7)年、大臣のほぼ全員が政党の議員からなる政党内閣の組閣がなされたのです。

 

 初の本格的な政党内閣と言っても従来の仕組みと変わらず、天皇によって原敬が総理大臣に任命され、そして原によって各大臣が選ばれることで原内閣は組閣されます。その点で言えば原内閣はあくまで大日本帝国憲法の規定の下で成立した政党内閣であり、原が法や制度の改革を行うことによって成し得た結果という訳ではありませんでした。それでもほぼ政党に所属する議員のみで構成された内閣には違いなく、成し遂げられたのもひとえに原の政治的手腕の賜物でしょう。

 

 原が志望していたのは、形式的ではなく実質的な立憲君主制でした。天皇を頂点とし、国民の参加する議会が憲法で認められている政治体制です。それは、藩閥のような仲間内の政治国民の手の届かない場所で行われる政治ではありません。

 近代以前からの地位を引き継ぐ華族でもなければ、薩長のように維新の功績がある訳でもない人間が総理大臣となり、政党の力で政治の主導権を握る。長く続いた藩閥・官僚閥の時代から、国民から選ばれた議員による政党政治へ。その初めの一歩を踏み出した事こそが、原敬という人物の歴史的な功績ではないかと思うのです。

 それは、原に与えられた平民宰相という名前からも見て取れます。当時の人々も、華族や派閥といった既得権益と無縁の人物が首相になることを歓迎していたのです。

 

 一方で、原内閣を「民主主義への一歩だ」と手放しで評価してしまうのも早計でしょう。政治的な力が既存の勢力、藩閥・官僚閥から政党に移行したことは確かに快挙ではありますが、実際のところ議席数という形で立憲政友会という一党に、ひいては原内閣に圧倒的な力が移っただけとも言えるからです。議会で国民の声を届け、政治に反映させるという民主主義の理想から考えれば、一つの党が議席数で議論を封殺してしまっていた原内閣には「独裁」という批判が当てはまるのもまた事実です。

 

 

普通選挙原敬

 

 しばしば原の政治的な立ち位置は「漸次的」と言われます。「漸次」とは段々と目指していくそのような意味合いで用いられますが、悪く言えば「今すぐにはやらない」です。

 

 第一次護憲運動や大正政変で運動を起こした人々が求めるものとは民主主義的な政治であり、彼らの一致した目標は「国民全員に選挙権が与えられる普通選挙の実現」でした。当時の選挙は多額の税金を納めた男子にのみ認められた制限選挙であり、選挙権があったのは全人口の1%強に過ぎません。その制限を取り払うことこそが人々の求める権利だったのです。*1

 当然、原の政党内閣の成立にも彼らの普通選挙実現の期待が込められていたことは言うまでもありません。ですが、原自身は先も述べたような漸次的な姿勢であり、普通選挙の実現にも「時期尚早」であるとして消極的でした。

 

 実際、1920(大正6)年に起きた普通選挙を求める大規模な運動を背景として、野党の憲政会は普通選挙法案を国会に提出します。しかし原政権はこれを「時期尚早」として審議を拒否し、衆議院を解散。総選挙で原の立憲政友会は圧勝し、結果として原内閣では普通選挙法案は実現しませんでした。

 

 いずれにせよ、当時の人々の求める民主主義的な政治と原政権の漸次的な姿勢にはやはり距離があったと言わざるを得ないでしょう。

 

 

 

 

 政治家としての原を評価すると、よく言えば堅実で実行力がある政治家、悪く言えば保守的で急進を嫌う性質を持つ政治家と言ったところでしょうか。

 しかし原の政党内閣の成立は当時の人々の民主主義を求める声の影響でもあったことは間違いなく、歴史の上から見ても意義深いものであると私は思います。

 

 この記事では政党内閣という観点のみに焦点を合わせて話しました。勿論、原の出自や外交官・大臣時代の経験、原内閣の行った政策等、原敬について語るトピックスは数多くあります。今回はそのほんの一例に過ぎませんので、興味のある方は是非調べてみてください。

 

www.melonbooks.co.jp

 

 

chiune.fanbox.cc

(作者の方の原敬暗殺事件についての記事も紹介させて頂きます。一つの事件について複数の資料から多角的に考察されており、歴史好きも必読です。)

 

 

(憲法や国会については上の本を参考にしました。今回は直接関係のない箇所は取り上げませんでしたが、調べていくと面白いのでおすすめです。)

 

*1:しかしながら、当時の人々が求める普通選挙もあくまで「男子のみ」でした。女性への参政権が認められるのは戦後になります。