覚え書き

色々書く予定

藤見銀の「また仲良くなれたり」について─『ぎんしお少々』より

・深夜のぎんしお少々語り(アルコール入り)

 そもそも語るなどと烏滸がましいというのはさておいて、ひさびさにブログでも軽く更新してみるかなどと思い立つ。思い立ったが吉日、しかも明日は休みというわけで檸檬堂を片手に書いて見ようかと思います。

 

『ぎんしお少々』2 p.61銀は「(写真のお陰で)それで姉とまた仲良くなれたりして」とかなめに語ります。これは当然一巻での遠足リベンジの一枚を踏まえた発言ではあるわけですが、少し「おや?」ともなります。銀はあの一件を「姉とまた仲良くなれたり」と受け取っているのです。仲良くという言葉を一般的に理解するのであれば、喧嘩をしていたり疎遠になっていたのであれば、この言葉選びも納得できます。しかし実際、銀は鈴と通話もしていますし、会えば親しげに抱きつかれたりもします。となると、この「また仲良くなれたり」とは私が考える「仲良く」という言葉とは別の意味で用いられていると考えられるのです。今回はこの点を考えてみたいと思います。

 

 

 

・変わってゆくもの、変わらないもの

 1p.90で鈴は「ごはんを塾の子とかと食べて来て」と遅かった理由を述べ、それに対して銀は「相変わらずだなあ」と返します。結局のところ、写真の一件があるまでの銀の鈴に対する認識というのはこの点にあるのではないか、と思うのです。幼い日の銀と鈴は2人で同じ世界を見ていたのが、成長するにつれて姉である鈴の世界はどんどんと広がり、いつしか銀は「鈴と見ている世界が重ならなくなってしまったのではないか」と錯覚するようになったのではないでしょうか。鈴が銀を置いて家を出てしまったのも、銀にはそう映ったことでしょう。

 

 この成長に伴う鈴の変化を、銀が「仲良くなれたり」の反対の意味で捉えてしまっていたというのは十分に考えられるかと思います。銀にとっての鈴との「仲良く」が「同じ世界を共有できる」なのであれば、やはり2人で過ごした幼い日の一幕が銀と鈴が一番仲が良かった時ということになるのでしょう。変わっていく鈴の中に、仲が良かったと銀が思っている鈴はまだ残っているのか。あるいは自分は既に大勢の内の一人に過ぎなくなってしまったのか。銀の中で幼い日の遠足リベンジの思い出が大事であればあるほどに、変わってしまった鈴の中にそれが残っているか否かという点の重みが増すのでは無いか、と思うのです。

 

 「また仲良くなれたり」の中身に関しても少し不思議です。これは「鈴が遠足リベンジの一件を確かに覚えていた」という出来事を銀なりに言い表した言葉なのでしょうが、その前後で銀と鈴の間の関係が目に見えて変わっている描写はおそらく無いです。2人は変わらずにお風呂で通話をしていますし、直接会えば親しげに話します。何か前後で変わったことがあるか?と問われれば、やはり無いと答えざるを得ません。では何故銀は「また仲良くなれたり」と述べたのでしょうか?

 難しいですが、これは銀の内面のみの心の動きなのではないかと思うのです。以前ブログでも触れたのですが、藤見姉妹が相互に自身の感情を伝え合うことは一巻範囲ではありませんでした。相手がどう思っているのか分からないままに自分1人で悩み、そして1人で納得できる解を見つける。それを思うと、銀の「仲良くなれたり」というのには銀からの問いかけや鈴の返答は必要ないものなのでしょう。ともすれば一方通行にも見えかねない描写ではありますが、「何が銀にとって大事なのか」を突き詰めて考えると納得が行きます。

 

 思えば前作『放課後すとりっぷ』のあかねと六花はお互いの大事にしている部分を分かり合えないことによって、表面上は親密でも内面的にはすれ違いを起こしていた関係性でした。互いに何が根底にあるのか、そして相手が大事にしている部分に(偶然でも)触れられるか否か、というのが銀の「仲良く」という言葉に凝縮されているように思うのです。

 銀と鈴の場合、一枚の写真を介して偶然にも鈴が銀の大事に思っている部分に触れ、そのことを銀が好意的に受け止めることによって銀の中で「仲良く」が再び成立したと言えます。それだけで十分というよりはそれが銀にとっては鈴との関係で一番大事な部分だったのでしょうし、銀にとっての鈴との「仲良く」とは幼い日の思い出が根底にあってこそ成立するのでしょう。

 

 ただ、本質的な部分に触れられているから良い、触れられていないから不幸である、という描き方はされていないようにも思います。あかねと六花にしても、互いに内面ではすれ違いを起こしつつも親密に付き合っていますし、銀と鈴もそうです。表面上の親密さ、つまり関係を維持しようとする部分と内面的な部分は異なるっているのではないか、と私は考えています。

 関係性を維持していく過程で相手の中にそういうものを見つけられるかもしれないし、見つけられないかもしれない。例え見つけられなくても人間関係は維持できるけれど、それでも見つけられることにはそれ特有の一つの幸せがあるそう私は捉えています。

 

 「この人は私のことをわかっているか否か」などと直接問う機会など殆ど存在せず、大抵自分の中で勝手に相手の態度から判断してしまう。そしてその判断を元として自分は相手から好かれているとか嫌われているとかあれこれ悩んで苦しんだりする。言わば一人相撲で滑稽とも取られかねない構図ではあるのですが、翻ってみれば世の中とは大体そんな感じで回っているのです。それで一喜一憂している人を見て「愚かだ」と誰が笑えるでしょうか。一人相撲の連続こそが人間関係であり、日常なのではないかと声を大にして言いたい…(本当か?)