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心と心のすれ違いーー『放課後すとりっぷ』『ぎんしお少々』紹介

 『放課後すとりっぷ』全2巻、『ぎんしお少々』1巻がKindleで半額で買えます!そんなわけで、折角ですので簡単な紹介記事を書きました。「気になっているんだけど読んだことないな〜」という方は、ぜひこの機会にKindleで買って読んでください。

 

・『放課後すとりっぷ』1巻・2

 

 

 

 

あらすじ

 

 憧れの人である美術部員・秋映あかねを追い、彼女のいる高校に入学する美術女子・青野林檎。入学早々、彼女の元に入部届を出しに行くも、ある理由からあかねに入部を拒絶されてしまう。絵を描く意義を喪失していた林檎は、ふとしたことから同じクラスの美少女・白石イチカの下着姿をデッサンすることとなる。たまたま現れた七瀬しちほ(なな)も交えて行われる放課後の下着デッサン会であったが、ななの姉である六花に「いかがわしい事をしているのでは」と怪しまれはじめ

 

 「『放課後すとりっぷ』?なんかえっちなやつでしょ、口で乳首隠すやつ。」

 

 半分は当たっています。実際、表紙を見れば下着姿の女の子がちょっといかがわしい感じに描かれているし、何より『放課後すとりっぷ』というタイトルから醸し出される背徳感は、見る人に否応なしにえっちなイメージを抱かせます。ですので、そう感じるのは極々自然なことではあります。

 しかし、ただそれだけと誤解して「読まなくてもいい」と判断してしまうのは、あまりにも勿体無いと言わざるを得ません。では他に何があるのか?私は本作の特徴として「キャラクター同士によって引き起こされる多層的なすれ違い劇を、四コマ漫画という形式に落とし込んでいる」という点を挙げたいと思います。

 

 「すれ違い」とはなんでしょうか?大きく言えば、それは認識の差異であると言えます。例えばある出来事について、自分と相手の考えや方針が異なっている場合に、両者の間においてすれ違いが生じていると言えるでしょう。私たちは何かをきっかけとして、自他の考えが明らかになって初めて「今、私たちはすれ違っている」と認識することができます。そしてお互いが認識の相違を認めた後、両者の認識を擦り合わせたり、あるいは見解の相違として受容したりというのが一つのコミュニケーションの形として、現実や創作物の中で共有されているように思います。

 しかし、我々の日常はそう上手くいくことばかりでもありません。認識を擦り合わせる機会が訪れることなく、相手のことを誤解したまま、あるいは誤解されたまま一緒にいる、という場合も現実では多々あります。お互い分かり合えないまま時が過ぎていくことも決して少なくないでしょう。そんな現実にありふれている「ままならなさ」や何事も上手くいき過ぎない日々…「すれ違い続ける日常」を主軸に描くのが、本作『放課後すとりっぷ』です。

 

 話が進めば進むほどに重なっていく誤解の数々と、終盤で一気にそれらが崩れてゆくカタルシス月刊誌掲載の四コマ漫画という枠の中でここまで凝った構造の作品は中々珍しいと思いますし、物語構造というメタ的観点からも大変面白い作品です。

 

 話の構造の他に私が好きな箇所として、主人公である青野林檎の「性的な欲望との向き合い方に関するエピソード」があります。ひょんなことから始まった下着姿のデッサン会ですが、絵の描き手である林檎は、描いている際にイチカらに対して劣情を抱いてしまいます。まるで触っているかのような快感と、自身に対する罪の意識の間で林檎の心は揺れ動きます。「いっそのことお触りすれば良い」という悪魔の声と、それを抑える理性の果てに何が待つのかという所も注目して頂けると嬉しいです。

 

 

・『ぎんしお少々』1

 

 

 

 

 あらすじ

 

 高校入学を機に双子の姉・鈴と離れ離れになってしまった妹・藤見銀。一方、歳の離れた姉・まほろが社会人となって家を出てしまい、一人残されてしまう妹・もゆる。もゆるは姉から託されたフィルムトイでたまたま現れた銀を撮影し、二人の関係が始まります。一方その頃、父親の単身赴任先の高校へと通う鈴は、お隣さんとなったまほろに料理を作ってあげるのでした。

 

 『放課後すとりっぷ』が一緒にいる人との間で織りなされるすれ違い劇であるのなら、『ぎんしお少々』は物理的に距離ができてしまった人たちの内にある心理的なすれ違い劇です。

 例え同じ人でも、時が経てば身長は伸びるし考えも変わる。何を面白いと思うのか、何に心動かされるのかそんなものだって、昔と今とで全く同じではいられません。同じ言葉を同じ口で語っていても、意味するものはまるで変わってしまっている、なんてこともあるでしょう。

 そんな現在とあったはずの不確かな過去を繋いでくれるものとして、本作ではフィルムカメラをキーアイテムとして提示します。本作では「写真を撮る」という行為を「その時の気持ちも写し、残してくれるもの」と定義し、登場人物の間で少し離れてしまった心と心を丁寧に繋いでいきます。一巻では幼い日に撮られた写真を起点に、銀と鈴のささやかなすれ違いと心の動きが描かれています。

 

 表紙にも大きく描かれた、キーアイテムであるフィルムカメラについても少し話します。今や私たちの手元には非常に高性能なカメラが搭載されたスマートフォンがあり、高画質の写真を即座に人と共有することができます。そんな「恵まれた」環境にいると、撮れる枚数に制限がある、画質も決して良くはない、上手く撮れているかその場で確認できない、現像までに時間がかかるといった難点のあるフィルムカメラに対し、あえて価値を見出すのは難しいかもしれません。かくいう私も、少なからずそう思っている節はありました。

 そんな野暮な疑問に、『ぎんしお少々』は優しく答えてくれます。作中で鈴に「(撮った写真がすぐ確認できないのに)楽しそうにしてた」と聞かれたまほろは、「楽しいよ、開けてみるまで分からない、宝箱が作れるんだよ」と答えました。スマホに搭載されたデジカメと比べて「ままならない」フィルムカメラだからこそ、偶然性を楽しむ余地が存在するのだとまほろは語っているのです。実際に作中ではこの「シャッターを切った瞬間にどう写せているのか分からない」ということ、そして「必ずしも上手くいくとは限らない、むしろ結構失敗することが多い」という特性に振り回されつつも、それすら楽しむ様子が描かれています。

 

 「写真を撮る」という行為の意義と、それが人に与える影響について深く掘り下げられた本作。人の感じる時間的な広がりと写真の特性とが重なり合い、話の構成も非常に美しい作品になっています。特に注目すべきものとして、「忘れてしまっている」という人と人との間における絶対的な断絶についてをダイナミックかつ繊細に描かれているエピソードが二巻範囲にありますので、気になった方は是非6月発売の二巻をチェックしてください。

 

 (『ぎんしお少々』については以前にも記事を幾つか書いていますので、宜しければどうぞ。ただ内容も踏み込んで書いているため、本編読後に閲覧することをお勧めします。)

 

imajin2458.hatenablog.com

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 というわけで、簡単にではありますが二つの作品の紹介記事を書かせていただきました。何か引っかかるものがあれば、是非購入して頂けますと嬉しいです。