覚え書き

色々書く予定

『ぎんしお少々』における「撮ること」と「撮られること」についてのメモ

 

「私はね、今日が嬉しいんだよ しろちゃんが話してくれた事とか だから、全部映るように 撮りたかったの」

 

 

 

 高校1年生の塩原もゆるは、実家を出て行く姉のまほろから進学祝いにトイカメラを貰う。時を同じくして、双子の妹である藤見銀は、姉の鈴と離れ、一人別の高校へと通うことに。そんな2人が出会い、もゆるが銀をダイレクト盗撮するところからこの物語は始まる。

 

・「写真を撮ること」塩原もゆるの場合

 『ぎんしお少々』では、機材や撮影技術の話はあまり前面には出ない(時々マニアックな?解説が入る時があるが、知らなくても楽しめると思う。現に知らないので)。では何が描かれているのか。それは、人がシャッターを切る瞬間、何を想うのか、という内的な変化であるように思う。

 カメラを渡され、写真を撮るようになったもゆる。物語当初では、通りがかりの銀や野良猫を「すぅちゃんに見せにいこう」という漠然とした理由で撮影していく。そんな中で銀と交流し、「すぅちゃんと似ていたから」という一言から銀との間に生じた誤解を抱えたことで、もゆるの心は大きく動いていく。

 もゆるは銀に自分の一言から誤解をさせてしまったことに負い目を感じ、銀と向き合えなくなる。そんな中で、現像した画像データを確認し、「うまくいかないから また撮りたいって、思うんだ。」と自分の気持ちに気がつくもゆる。その気付きが、銀との上手くいかない関係へと転化され、再び銀と話そうという気持ちへと繋がっていくのである。

 

 塩原もゆるは、理由よりも行動が先走るタイプの人間である。中学時代のもゆるの描写を見るに、自身の行動の理由を周囲に上手く説明できず、それ故にコミュニケーション不全に陥ってしまっていた。そんなもゆるが、カメラのファインダーという限られた窓を覗くことで、「自分が何を撮ろうとしているのか」という形でもゆる自身の気持ちを捉え始めていく。塩原もゆるにとって撮影という行為は、被写体をフィルムに収めるのと同時に、自分自身を客観的に見つめることでもあるのだと思う。

 もゆるの中で「写真を撮る」という行為の意味が明確になっていく象徴的な場面が、一巻の終盤である。思い出の写真と銀を撮ろうとして理由を問われたもゆるは、「私はね 今日が嬉しいんだよ しろちゃんが話してくれた事とか だから、全部映るように 撮りたかったの」と答える。私が思うに、この気持ち自体はもゆるの心の何処かにはあったのだろう。ただそれは、以前までのもゆるであれば言語化することが出来ず、相手に伝えられなかった気持ちである。その気持ちが、「写真を撮る」という行動を介することによって表面化し、銀へと言葉によって伝えることができたのだ。

 序盤で銀に誤解を与えて右往左往していたもゆるが、写真によって想いを上手く伝えられるようになる。単純ではあるが、カメラの漫画としてこれほどまで綺麗な答えはないように思う。

 

 人と人との繋がりの中で、一つの自己認識の表現として「写真を撮る」という行為を描き出す。「レンズを向けてシャッターを切る」という何気ない動作に対してこれほどまで多くの意味を見出してみせる作者の技量には、ただただ感服するばかりである。

 

・「写真に撮られること」藤見銀の場合

 

 一方、入学初日に通りがかりのもゆるからダイレクト盗撮をされた銀。必死になって写真を消させようと迫る銀にも、内に言葉にならないものを抱えている。

 

 もゆるが「写真を撮ること」によって変わっていくとすれば、銀は「写真を撮られること」によって変わっていく存在である。

 理由よりも行動が先行しがちなもゆると異なり、銀は常に理由が必要な人だ。「頑張りポイント」という概念を駆使し、己を鼓舞して行動に移す。そんな内省的な銀の脳裏には、常に離れ離れになった姉の鈴の存在がある。鈴の存在が当たり前であった銀が一人で行動せざるを得ない、いわば欠けた状態で鈴の話は始まっていく。

 何かある度に側にいない鈴を想い、考え込んでしまう銀。そんな銀にきっかけをくれるのが、もゆるの写真である。「(鈴と)ずっと一緒に居られない事が、分からなくなっていくっていうか……」と話す銀に、もゆるは「寂しいの?」と一言返す。銀の中に確かにあったけれど、もゆるに指摘されるまで「寂しい」という感情を自覚出来なかった。ここで、被写体として映されることによる「他人からみた自分」の構造が浮かび上がる。

 それが顕著に現れるのが、p.78の「こいつには私は どう見えているんだろう」という独白だ。鈴が隣にいない事を「不自然な状態である」と考えて自信を持てず、被写体となることにも引け目を感じている銀。しかし、今隣にいるもゆるの存在を受け入れる事により、現在の銀自身を肯定するかのような笑みを浮かべ、シャッターが切られる。全て銀のモノローグで語られる一連の場面は、一見さらりと描かれているように見えて、銀の自己認識や「撮られること」というテーマを意識して読むと、さらに違った読み味になると思う。

 

 銀にとっても大きな転換点になるのが、13話である。幼い日の思い出を撮った写真から、鈴が自分との思い出を覚えていたことを確認した銀。「写真が記憶を繋いでくれる」という想いから、頑張ってもゆるの写真コンテストを応援する事に。協力する理由をもゆるに話す中で、もゆるは銀と思い出の写真を一緒に撮ろうと提案する。銀からその意図を問われたもゆるは、「私はね、今日が嬉しいんだよ しろちゃんが話してくれた事とか だから全部映るように 撮りたかったの」と答え、シャッターを切るのだった。

 もゆるに写真を見せて説明する前、「思い出が形になることは そんなに悪いことじゃない気がしたから」と口にする銀。この時、恐らく銀の言葉はもゆるには届いていない。その後、もゆるは銀と写真を一枚に収めようとする際に、上の台詞を銀へ伝える。それまで異なる人生を経験してきた、撮影者と被写体という対になる関係性の二人が、この時初めて「写真は人の想いを映し、残すことができる」という一つの解を得たのである。この瞬間こそ、「写真を撮ること、撮られること」を主題とした『ぎんしお少々』における一つの到達点であるように私は思う。

 

 

 撮ること、撮られることによって、もゆると銀は自分自身を認識してゆく。写真を撮るという一動作に関する心情をここまで丁寧に深掘りし、それを複数人の心情変化の伴う作劇として4コマ漫画に落とし込まれた本作。『放課後すとりっぷ』の時にも垣間見えた、互いの認識が異なるという点を活かした作劇として、さらなる進化を遂げた傑作と言ってももはや過言ではないだろう。まだ一巻しか出てないけど。

 

 『ぎんしお少々』は11話に各登場人物にとって重要なポイントが散りばめられており、全体を把握した後に読むとさらに何倍もの情報を受け取ることができる。きららの中でもかなりハイコンテクストな作品であり、途中から入るのはやや取っ付きづらい節が無くもない。実際、これを書くために再読している私自身も、風車に挑むドン・キホーテの心持ちである。ただある程度の人間関係を把握すると本当に毎月のきららが楽しみで狂い始めるので、とにかく追い付ける者は今すぐに追いついてほしい。連載を追えるのは今だけなので。

 (特に2巻範囲の若葉谷セツナさんとかなめ先輩の話がハイコンテクストの極地みたいな作りで、正直自分も未だに受け止めきれていない位には良いです。)

 

 重ね重ねになるが、私がきらら4誌の中で一番面白いと断言できる作品であるところの『ぎんしお少々』を、これを読んだ方は必ず読んで欲しい。現在単行本一巻が好評発売中。

 

(今回は鈴とまほろさん側の話を書かなかった。今後頑張れば書くかもしれない。書かないかもしれない。)