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『ぎんしお少々』藤見姉妹の「すれ違い」の話

 自分の気持ちが常に相手に伝わる、なんて都合に良いことはあるのでしょうか。例え親しい友人同士や親子の間、ずっと傍にいた双子の姉妹であっても、本当に思っている事というのは容易に伝わるものではありません。寧ろ、伝わらないのが普通なのではないでしょうか?

 というわけで今回は、『ぎんしお少々』に登場する藤見姉妹の「すれ違い」の話をしようと思います。

 

 高校入学を機に父親の単身赴任先?に移り住むことにした姉の鈴と、「一緒に行こう」という姉の誘いを断った銀。二人の間に物理的な距離と共に、その心もすれ違っていきます。

 『ぎんしお少々』1話は、そんな銀が一人で高校への通学路を歩む場面から始まります。

 まずは銀の側から見ていきます。銀は鈴の誘いを断ったものの、「結局、傷ついたのは私だけで 損だなあ、と思った。」と独白し、一人抱え込みます。この銀の葛藤とは、「分かっていると思っていた鈴の気持ちが、段々と分からなくなり始めた」ということなのではないかと思われます。確かに、小学生の時に遠足リベンジに誘ってくれた鈴と、交友関係が広がり、常に自分の方だけを向いているわけではない今の鈴とでは大きく変化しています。そんな鈴の変化を銀が受け止めきれなくなり、意地を張ってしまったのだとしても不思議ではありません。

 銀が鈴に対するわだかまりを解いていくきっかけとなるのが、母親が隠し撮りした写真です。銀と鈴の間に確かにあった楽しい時間を今の鈴が覚えていたことで、銀は昔の鈴との連続性を確認します。つまり、変わってしまって分からなくなっていた今の鈴の中に、昔と変わらないもの、分かるものを見出すわけです。

 ここで私が注目したいのは、銀個人の中で抱えていたわだかまりの解消は、鈴には全く伝わっていないという点です。銀は変わっていく鈴に対して一人悩んでいたわけですが、その解決にも、そもそも銀が悩みを抱えていた事自体、鈴は何も把握していなかったでしょう。

 

 鈴の側からも見ていきます。念願だった知らない土地での新生活をスタートする鈴は、偶然まほろに出会い、レンズ付きフィルムを渡されます。楽しげに写真を撮るまほろの姿に、鈴は「出来たの見せたら 今楽しいって事伝わるかな」と銀のことを想起します。

 この場面から、銀の側は「鈴の気持ちが分からなくなっていく」という悩みを抱えていたのに対し、鈴は「銀に自分の気持ちが伝わらなくなっていく」という悩みを抱えていることが分かります。鈴は、銀がわだかまりを解くきっかけとなった遠足リベンジの写真を眺めながら「あの時、銀が楽しそうにしてくれたから あたしは今も、楽しいんだよ」と、自分の中にある銀への想いを独白します。

 しかし、鈴の「楽しい」という気持ちは、今のところ銀に直接伝わっている描写はありません。

 

 一枚の写真を通して何かお互いに通じ合う部分があったように見えてしまいがちな場面ですが、実のところ、二人の間で直接に伝わったものは描写からは伺うことは出来ないのです。

 

 ここに、先生が前作『放課後すとりっぷ』から作風として確立している「すれ違い」があるように私は考えます。作劇における「すれ違い」について、先生のブログでも直接に言及がありますので以下そのまま引用させて頂きます。

 

  これには若干の若鶏の思想もあり(手癖も大幅にありますが!)
  一応あんなんでも、「きららをやろう」「日常モノをやろう」と努力をしており、
  「じゃあ日常モノって何だろう?」となった時に
  「やるせなさじゃないか?」と思い当たり。
  これはこの作品以前から思っていた事なので、
  「マメモチ」とかも似たような感覚で描いていたはずちょっと自信がない。

  先ほどの「ものがたり」と「現実」の間に位置するのが
  「日常モノのものがたり」なんじゃないかと思っていて。
  最高のところで終われない、どこかヘッポコで上手に行き過ぎない、みたいな。
  なので最後以外は全部「どこか上手に行き過ぎない」を意識していて、
  その結果が地獄のようなすれ違い劇になってしまったのでした。

 

   出典:https://pm0200log.tumblr.com/post/189330529261

 

 最後に全ての因果が綺麗に回収されて最高の状態で終わることができる「ものがたり」と、因果は回収されないし死ぬまで終わることのない「現実」の狭間にあるのが先生のお考えになる「すれ違い」であるのなら、藤見姉妹もまたこの「すれ違い」の中に生きているのではないでしょうか。

 

 まほろの「私の知ってる私と乖離がある!」という台詞が物語中にあります。この台詞は銀や鈴に向けて言われたものではありませんが、私は藤見姉妹のすれ違いというのはこの一言で別角度から理解することもできるのでは、と考えています。

 銀は今の鈴を「他の人とも仲良くできて、自分は鈴の大勢の中の一人に過ぎなくなっている」と認識し、自分はと孤立感を深めています。一方の鈴は、自分の根底には銀の存在があり、今自分が楽しく過ごせているのは銀のお陰だという意識があります。しかし、銀にはそう見えていません。これも、自己認識と他者認識の差という意味での「すれ違い」と言うことができるのではないでしょうか。

 

 以上見てきた通り、『ぎんしお少々』では藤見姉妹を通して「相手に思っている事が伝わらない」という点での「すれ違い」が描かれています。

 それでは、伝わらないことは彼女達にとって不幸な事なのでしょうか。私はそうは思いません。人間の関係というのは、相手に対して思っていることを洗いざらい話すことだけが最上ではないでしょう。全てを話さなくても、また自分の中に葛藤があったとしても、お互いを想って行動できる、というのが何より大事であると思います。鈴も銀のことを想っていたからこそ遠足リベンジを覚えていました。同時に銀も、鈴のことを想っているからこそ、写真について聞くことができたのではないかと私は思っています。だから例えすれ違っていたとしても、前を向いて進んでいけるのです。

 

 

 

 とはいえ、「あたしは今も、楽しいんだよ」とモノローグする鈴ちゃんを見ると、やっぱり届いて欲しいよ〜と思わずにはいられない訳です。人間なので。届いて欲しいよ〜……

 

 

 

 

 

 本作『ぎんしお少々』は来月に最終回を迎えるということで、この「すれ違い」にも一応の決着が付くのではないか、と私は予想しています。正直、どんな形で結末が描かれるのかは全然想像できません。しかし、『放課後すとりっぷ』があれほど素晴らしい決着を迎えられたこともあるので、心に不安は一切ありません。非常に残念ではありますが、ただその時を座して待つ次第です。

 

 

 まさか居ないとは思いますが、これを読んでる方で未だ『ぎんしお少々』を未読、あるいは単行本を購入していないという方がもしおられましたら、今すぐ買ってください。私から言えるのはそれだけです。